来自 国际 1970-01-01 08:00 的文章


井内英人:2002年出生于东京,现为高中一年级学生


那是去年这个时候发生的事情。“我要回中国!”我哭着说道。面对这样的我,母亲露出了与其说是困惑,不如说是不可思议的表情。让我说出这句话的原因是这样的。

2014年到2017年,整整3年的时间里,因为父亲工作的缘故,我和母亲、弟弟一起来到上海生活。出生于东京,国籍是日本,父母也都是日本人,并且在这之前从未和中国有过联系的我,却说出“要回中国”而不是“要去中国”这种将中国当成故乡看待的话语,确实让人吃惊。但对我来说,说出“想回中国”时并没有其他考虑,只是单纯的、自然而然发出的心声。当时的我,正在努力适应着回到日本后的初中生活,面临着高中入学考试等压力,可能在精神上确实有些不安。一年后的今天,我依然清晰的感到,我的心之故乡在中国,并且会始终怀念。这种感受源于我在中国的那段生活。

父亲决定来中国工作后,我们一家人本打算住在临近日本人学校的一所公寓里,从那里步行上学,但和学校商谈的结果却是弟弟能上而我不行,理由就是因为我的残疾。由于我在日本和普通孩子一样,上的都是一般学校,所以不论是我还是父母都理所当然地觉得一定能够进入日本人学校,结果却恰恰相反。眺望着高层公寓下的学校,我对自己说道:没办法啊,这里是中国又不是日本。

这时,向我们伸出援手的却是一所上海的普通中学。“这是义务教育,你们明天来就行”王校长这样说道,问都没问我有残疾的这件事。学校的课程是汉语教学。起初,老师说什么我都听不懂,不过在这里遇到的事情都是新鲜且刺激的,每天都让我兴奋得心里砰砰跳。最棒的是大家都对我十分友好,这和我事先预想的完全不一样。每当遇到麻烦时,同学们都会一下子涌过来提供各种各样的帮助,虽然有点让我不好意思,但真的十分感动。每当我表示给他们添了麻烦时,大家总是爽朗的答道“没事,没事!”。现在想来,就是每天在这样的小事中,我获得了勇气与活力,度过了在上海的学校生活。我还结识了可以与彼此家人一起相处的朋友。不只是学校,在地铁和公交车上,也经常有人给我让座。发现我没注意到时,让座的人还会拉拉我的衣角,让我坐下。有时,还会有人大声地对我提出“多吃点豆子”之类的建议,热情地甚至让我有些招架不住。因为在日本,我从没有过被让座的经历,更不用说还有陌生人关心我的身体甚至提出饮食方面的建议。在上海的这些小事,让我现在偶尔回想起来都会情不自禁得笑出来。

中国的上海是世界上屈指可数的大都市,马路和人行道都修整的很好,地铁也配有直行电梯和站台门。在我看来,上海的无障碍设施很完备。更重要的是,我之所以能免受语言和身体障碍之忧,在中国充实地生活,或许正是因为中国人心中的“无障碍”。

如今,我正在日本的高中学习汉语。今年夏天,我计划看望友人并寄宿于北京。对于我的请求,对方二话不说就答应了。我想,当机立断也正是中国人的优点。将来,我希望做一份能够让人了解中国人优良品质的工作。


访华感想:笹川杯日本知识大赛汇聚了来自中国各地的大学生们,赛场气氛活跃。选手们甚至能够答对连日本人都答不出来的问题,我不禁感叹他们太厉害了。在位于成都的熊猫基地,当看到有上百只熊猫生活在那里时,我为规模之大深感震惊。现在,生活在上野动物园的熊猫“香香”颇受日本民众关注。得知它在五岁的时候会回到成都,我感受到了日中间通过熊猫建立起的友谊。此外,麻婆豆腐真是人间美味!对于喜欢吃辣的我来说,成都简直就是天堂。




心のバリアフリー


井内英人 :高校1年生


昨年のちょうど今頃の出来事である。「俺、中国に帰りたい!」泣きながら訴える僕に、母は、困るというより、不思議そうな顔をしていたのを覚えている。その理由は、こうだ。

2014年から17年にかけて、丸3年間、父の仕事の都合で、母と弟とともに上海で暮らした。出身は東京、国籍は日本、両親も日本人、それまで中国とは全く縁のなかった僕が、中国に「行きたい」ではなく、中国を我が故郷のように想い、「帰りたい」という言葉を発したことに驚いたらしい。ただ、僕としては、「帰りたい」という言葉は、何か考えがあったわけではなく、純粋に、自然に出てきた言葉だった。あの頃は、帰国直後で日本での中学校生活に慣れるのに必死で、また高校入試のことなどもあって、確かに、精神的に少し不安定だったのかもしれない。しかし、1年経った今でもはっきり言えるのは、僕の心の故郷は中国であり、この想いをいつまでも大切に抱いていきたい、そんなことを思わせてくれる中国での生活があった。

父の赴任が決まった当時、日本人学校に隣接するマンションで暮らすことが決まり、そこから歩いて通学する予定だった。しかし、学校との面談の結果、弟は合格、僕は不合格となってしまった。理由は、僕の身体障がいのためだった。日本では皆と同じく普通学級で過ごしていたので、僕も両親も何の問題もなく編入できると思っていたが、そうではなかった。高層マンションの眼下に広がる日本人学校を眺めながら、ここは日本ではなく中国だから仕方ないと自分に言い聞かせた。

ところが、そんな僕たちが通うことになったのは、なんと上海市立の現地校だった。王校長先生から「義務教育だから、明日からでもいらっしゃい」と言っていただいたのだ。もちろん、障がいのことなど問われなかった。授業も全部中国語で、当初、先生が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、何もかもが初めての事だらけで、刺激的で、毎日ワクワクした。何より、予想に反して、皆が好意的だった。困っていると皆がわっと集まって色々助けてくれて、それが少し恥ずかしく、でも、とても有難かった。すまなそうに礼を言うと「没事、没事!」と明るく返事をしてくれて、今、思うと、僕の上海での学生生活は、このような日々のささやかな出来事の中で、勇気と元気をもらって支えられていたのではないかとあらためて感じる。もちろん、家族ぐるみで付き合えるような友人もできた。また、学校生活だけでなく、地下鉄やバスでも、よく席を譲ってもらった。それに気付かないでいると、服の裾を引っ張ってまでして、座れと教えてくれた。そして、時には、「もっと豆を食べなさい」とか、こちらがもう勘弁してくれと思うほど、大きな声であれこれアドバイスをしてくれたりした。日本では席を譲られた経験などなく、まして、見知らぬ人が、僕の身体を心配して食事のアドバイスをしてくれることはまず無いわけで、上海でのこの出来事には、今でも時々思い出しては笑ってしまう。

中国の中でも、上海は、世界有数の大都市であり、道路や歩道も整備され、地下鉄にもエレベーターやホームドアが設置されていて、僕からみても、バリアフリー化は進んでいると感じた。しかし、それ以上に思うのは、言葉がわからないとか、障がいがあるとか、そういったことに煩わされることなく、僕なりに充実した生活を送ることができたのは、中国人の心の中に、真のバリアフリーがあるからではないかと思う。

僕は、現在、日本の高校で中国語を学んでいる。今年の夏休みは、知人を訪ねて、北京でホームステイをする予定だ。僕がお願いしたところ、二つ返事で了解してくれた。即断即決なのも中国人の良い所だと思う。将来は、中国人の本質的な良さを分かってもらえるような仕事に就きたいと思っている。


訪中の感想:中国全土から集まってきた大学生達による日本知識大会は、とても盛り上がり、日本人でも答えられないクイズに正解する姿に、彼らはやはりすごいなと感じました。成都のパンダ基地には、百頭以上のパンダが生息しているとのことで、その規模にとても驚きました。今、日本で注目されている上野動物園のシャンシャンも2歳頃には成都に戻ると聞き、パンダを通じての日中の繋がりを感じました。また、麻婆豆腐は絶品でした。辛い物好きの僕にとっては成都は最高の都市でした。


(本文原文为日文,翻译:陈蕴青)

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